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8.接地工事の歴史

2)日本初の接地工事

世界初の接地工事が雷保護(外部雷保護システム)によるものであることから、“日本における最初の接地工事も雷保護では?”と考えてしまうと思います。しかし、日本初の接地工事は雷保護に関するものではありませんでした。

さて、それは何でしょうか?

嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊の4隻の軍艦が江戸の浦賀沖に姿を現しました。これが、後の日本の文化に大きな変革をもたらせた“ペリー来航”です。 そして翌1854年1月、今度は軍艦7積を率いて再び来航し、日本に対し軍事的な圧力をかけ同年3月に日米和親条約を結ぶこととなりました。

図2.1854年のペリー来航

ペリーの横浜上陸
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2回目の来航時、ペリーは多くの献上品を持って来ました。望遠鏡、農具、柱時計、銃などの武器、お酒、オルゴール、汽車の模型など、その量は小船24隻にも及ぶほどだったと言われています。そして、その中に本サイトの主役である“接地電極”が搭載されていたと思われます。 さて、この接地電極が何に使われたかと言うと“電信機の実験”に利用されました。

1854年(嘉永7年)2月、横浜村に設置された実験場に何本もの柱が建てられ、応接所と実験小屋との約1kmの間で電信の実験が行われてました。下記はこの時に描かれた電信機の絵です。この絵の下部を良く見ると電信機の一端から伸びた電線が地中に伸びており“針がねの先は地中”と書いてあります。ここで使用された電信機の仕組みと以下に示す当時の絵からすれば、接地極を埋設したものと考えられます。

電信機実験図:横浜開港資料館 所蔵

出典:横浜開港資料館.ペリー来航と横浜.P15.26ペリーが持参した伝信械(来艦渡来記念図)
所蔵:横浜開港資料館

つまり、日本で最初の接地工事はペリーの一行が電信実験で施工したものと想定できます。 日本初の接地工事は、誰もが知っている歴史上の人物の一行が行ったということに驚きを感じます。 なお、この時のエンボシング・モールス電信機は実在しており、国の重要文化財として郵政博物館に保管されています。

写真2 エンボシング・モールス電信機:重要文化財「郵政博物館提供」

エンボシング・モールス電信機(重要文化財) 提供:郵政博物館

写真1 名主中山吉左衛門宅に設置された電信機「郵政博物館提供」

名主中山吉左衛門宅に設置された電信機 提供:郵政博物館

因みに、日本初の避雷針は江戸時代末期に船に取り付けられたものが最初のものかもしれません。
神戸大学の武田幸雄名誉教授の論文“避雷針について”(1982)によれば、新宮藩がオランダ造船書を訳させ製造した丹鶴丸(第1船:1857年〔安政4年〕、第2船:1859年〔安政6年〕)に取り付けられていたとされています。

1)ペリー来航と横浜 横浜開港資料館 2004
2)電気通信共同研究報告 黎明期の通信に関する研究法告書 総務省郵政研究所 平成15年3月
3)避雷針について 武田幸男 神戸大学 海事資料館年報,10:11-13 1982